20190127 消費される商店街

Tori

 腕時計の電池を交換したいと思って近くに商店街に出かけた。確か時計屋があったはず。念のためネットでも調べてから行ってみたのだが、どうしても見つからない。時計屋があったところは、シャッターが閉まっていた。
 この街に引っ越してきてもうすぐ十二年。商店街の店も相当入れ替わった。ずっと続いている店もある。美味しい豆腐屋さん。地酒の種類の多い酒屋にお茶屋に鰻屋さん。店を閉じたままの和菓子屋さんもあるし、本屋さんも靴屋さんも、電気屋さんなくなってしまった。店の形態がいろいろと変わった場所もある。
 シャッターの閉まった店がちらほらと見える中で、ちょっとしたこだわりの店に人気が集まっていたりするのも見る。若い人の始めた本格的な窯を備えたピザ屋であったり、焙煎にこだわったコーヒー豆の店、新鮮フルーツふんだんで写真映えするクレープの店。ショーケースではなく、テーブルの上に並べたパンを売る店。
 若い人が新しい感性を持ち込んシャッター商店街を活性化させたという話はテレビで見たことがある。
 ピザ屋にに行ってみたら、いい感じ。ウッディで、新しい店なのに、ずいぶんと前からそこにあったなじみの店に来たような雰囲気で出迎えてくれる。
 そう、確かに若い人の若いテーストといえば、その通りだが、よく見れば、俺より少し若いくらいか、それほど変わらない。五十代かそのちょっと前の人が若い人として商店街にこだわりの店のアイディアを持って入ってくるんだね。老人しかいなかった商店街の奥の方にまで若い人たちが入ってくるようになった。確かに商店街は生きていて変わっている。
 でも結局、腕時計の電池を交換してくれる店は見つからなかった。
 そんな商店街のお店が消えてしまっているのは悲しいが、その責任の一端を感じてはいる。時計の本体を買うときは大きな量販店に行って、電池交換の時だけ行こうと思う客だけでは時計屋は続くまい。そんな時代の中で生き残り、長生きする商売ということを考えるのが難しいのかもしれない。使い捨ての世の中。商売も店もそんな使い捨ての世の中に合わせたサイクルで消費されてしまうのかもしれない。
 商店街の中で長く商売を続けて行くには苦労も工夫もいるのだろうし、時代の流れに乗りにくい業種もあるだろう。子どもの頃に住んでいた街の小さな商店街にも時計屋はあった。そこで買ってもらった最初の腕時計を腕に巻いたときの嬉しさを今でも覚えている。眼に特殊なルーペをつけた時計屋さんが何かを調べてから腕につけてくれた。短いサイクルで消費されてしまうには見合わない期間を費やした専門性がそこにはあったのだろう。
 今、専門性を身につけようと身を削る努力している娘の姿を見ながら、モノだけではなく人まで消費しない世の中になることのないよう祈りながら足早に商店街を通り抜けた。

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