家の玄関を開ける時に、
(あれ、まさか)
と、思う。そして、開けた時、確信する。
(えっ、また)
「おかえり」
「もしかして、今日、カレー?」
「あっ、食べてきちゃった?」
「うん」
という日が年に何回かある。
昼にカレーをどうしても、どうしても食べたくなる日がある。その日がどういう訳か家族と重なるのである。昼にカレーを食べる時に、今晩、家でもカレーかもしれないなんて全く思いはしない。でも家が近づいて来ると、鼻の奥にカレーの匂いが漂ってくる気がして、家でもカレーだなってなぜか分かってしまう。
どうして昼にカレーを食べた日は、家の夕食もカレーなのか。一緒に暮らしている家族では、カレーを食べたくなる身体のリズムが揃ってしまうのか。それが決まったサイクルだからなのか、何か前の日に食べたものに影響されるのか。よく分からないが確かに重なってしまうのだ。
今日は、桃の節句。我が家でも雛人形を飾って、雪洞を灯してお祝いをした。ヒトの周りでは様々な物が、それぞれのリズムで動いている。周期を実感しやすいのは月の満ち欠けだが、それだけを生活の基盤にしていると、植物の成長や開花といった自然の季節感とだんだんとずれてきてしまう。移ろう自然のずれを閏で調整しながら、人の決めた時期に合わせて体感するのが節句の意味なのかなと思う。人が切り分けた自然の時を、人として確認して味わうための行事。生物としてのヒトと、人が切り分けた時間、そして人のリズムとのズレとに折り合いをつけて、再び人として健康に生きていくための装置。
カレーを食べたくなるリズムは、生物としてのヒトが何か自然から刺激で生じているものなのか、それとも、人として社会生活を送っている中で生じる物なのか。周期が一ヶ月よりは短い気がするが、今度、カレーを食べたくなった日を記録して調べてみようかな。
でも、我が家のカレーのスケジュールで驚くような新たな発見があるわけはないか。一方で、酒を飲みたくなる周期はほぼ一日。これははっきりしているし、これくらいのサイクルだと、わかりやすいんだけどな。あぁ、でも、週末にはサイクルが少し短くしたいかもしれない。一週間という周期も人が区切ったもの。生物としてのヒトのリズムと社会で生きる人の作った区切りに折り合いをつけるためにも、週末はゆっくりと酔っておこうかな。
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