2019/02/24 盃の酒に映った梅

Ume at Hirakawa Tenjin

 昼休みに職場に近い平河天神に行こうとしたら、大きな声で笑ったり話したりしながら独りで楽しそうに歩いて来る人がいた。昔は、そういう人には近づかないようにしたものだが、最近のそういう人は駅の人混みの中だったり、商店街の雑踏の中だったりと、避けられない状況で見かけることが多い。だんだん慣れて来たが、耳にワイヤレスのマイク付きヘッドホンをつけて電話をしてるのである。今、目の前を歩いているこの人、気持ちは電波の向こうの人とつながっていて、確かに前を見ながら歩いているのだが、意識は今ここにはない。電波の向こうに人が実在するのであれば独り言ではないということか。
 先日、地下鉄に乗っていたら、ある駅で三十歳前後の男性と六十歳くらいの女性とが乗ってきた。ちらっと見たときに親子なのかなと思ったくらいで意識に止めていなかったのだが、しばらくすると男の方が、
「大丈夫だよ、大丈夫。気にしなくていいんだよ」
と大きな声で話し出した。お母さんに話しかけているのかと思いはしたが、声が大きいので何かあったのかと思って、そちらを見たら、女性は驚いたような顔をして隣の車両に移ってしまった。
 男性はそんなことには関わらず、
「ちゃんとうまく行くよ。大丈夫だよ、大丈夫なんだよ。気にしなくていいよ、がんばってきたじゃん」
 耳にはワイヤレスヘッドホンなど入っていない。手すりにつかまりながら、俯くでもなく、まっすぐ前を見ながら語りかけている。少し上気したようには見えたが、同情的なまなざしで、窓ガラスに映っている自分に向かって。
 これは独り言だったのか。ガラスに映る自分であってもその自分は実在している。娘のために本を買いに行こうと乗っていた地下鉄で、娘はもう大丈夫だよ、俺も大丈夫、大丈夫だよっていう自分の心の声が突然社内に響いたようで、なんだか急に目頭が熱くなった。まったく独り言なんかじゃなかったじゃん。語りかけられちゃったじゃん、て思ったよ。
 何でも無い、何もないような顔をして一つの車両に乗り合わせている人たちの心の中に渦巻くいろいろな思い。あまりに背負った物が重すぎて、想いが強くなりすぎても、優しさが口からこぼれ出てしまう人もいるだろう、目の前のガラスに落ち込んだ顔が映ったら。
 同じ駅で降りたその男性。静かにまっすぐ前を見てエスカレーターに乗っていた。どこに向かっているのだろう。行く先には何が待っていたのだろう。大丈夫だったのかな。
 平河天神では梅が咲き始めている。
「梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ (大伴旅人)」
 左遷された太宰府での一献にも梅を映して慰めたか。この万葉歌に暗さは感じられない。でも、大丈夫、きっとうまくいくという前向き感もまたない。ただ、ただ、受け入れている。映っている。杯の酒に映っていたのは酔った自分の顔だけだったのかもしれない、梅の花ではなく。
 さぁ、色々と出てきた春の酒。盃の酒にいろいろと映るようだね。

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